心と頭と体。そして脳。
頭で考えたことより、心で感じたことのほうがずっと強い。頭でわかったつもりでも、心が動かないと。そして、そのあとで、体も動く。
言葉はとっても断定的でムードを明確に限定されるけど、音は音として浮遊している。この頃、ジャズギター中心でインストを聴いていると、タイトルと曲の間には、歌ものよりずっと自由度が高いなあと。
聴く人にゆだねている音楽、風のように心地よい。
昔、あるギターの先生に、歌手は日本的なより、西洋的な感じで毎日過ごした方がストレートに伝わるかもしれないときいた。日常的にオーバーなくらい喜怒哀楽をあらわにする人が歌を歌うのと、あまり外に出ないタイプの人は、それなりに表現はかわるんだろう。同じ曲なのに、歌でも楽器でもみんな違う。
心を抑えているのがあたりまえで来ていると、素直に喜怒哀楽を表すのも難しくなる。でも、確かに日本的な社会だとあまりにオーバーな感情表現は引かれることもあるかもだ。
音楽やあらゆる表現は、喜び怒りや、哀しみ、楽しみなどあらゆる感情を出すこと。
ヨガでは、あらゆる緊張が病を作るから、その緊張を緩めることが必要と先生が言っていた。私も緊張はしたくない。
感情を抑えることは体にもよくないことだけど、怒りをストレートに出すというのはどこまでやっていいか、できるかよくわからない。案外、怒りってうまく表現するの難しい。怒りをテーマにした歌を作りたいなと前から思ってもいる。
リズムの拍にも表と裏があるように、ものごと全て、表には裏があり、裏には表がある。裏で歌うことを最近している。同じ曲なのにまた違った面白さを感じた。うまくいったときの浮遊感覚が面白い。裏拍子で音をとるのが。
先日うかがった、万葉うどんさんの月1イベントは18年も続いているとうかがった。すばらしいことだと思う。近頃、街並み、お店とかもちょっと行かない間に様変わりはよくあります。
ジョアンがあのスタイルをデビュー当時からかわらずわき目もふらず続けているということも、すごいことに思えます。
スランプの時は変化の時。スランプの時は、ムリに練習なんかしないで違うことするのがよいのかな、と思いきや、サックスのデビッド・サンボーンさんは、スランプの時、いつも以上にひたすら練習するそうだ。
右手のバチーダの練習は、体で覚えるように、体育会系の練習を学生のときしたことを覚えている。
もしテクニックを習得したとしても、心が動いていないと、血の通った音にはならないだろう。
頭で考えたことなんて限りがあるし、心の方が強い。
子どものように心が向かう方向に体が素直についていけばよいのだろう。
そして、あらゆる経験は血と肉になり、音になる。
今、”脳にいいことだけをやりなさい!”byマーシー・シャイモフ著、茂木健一郎訳を読んでいる。
幸せを呼ぶ脳の使い方として、”許すことについては、相手のためにすることでなく、自分のためにすること、許しは自分を癒すこと、力を与えること”と言っている。
”気持ちが落ち込んだときは続けて三日間、夜十時(できれば九時)には眠りなさい”とある。 日々の幸福感に睡眠の質もとても関係していそうだ。
とにかく、ポジポジポジポジポジポジポジposiposiposiposi
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